霧ケ峰・霧ヶ峰高原・八島ケ原湿原

自然が創造した12,000年のロマン 八島ヶ原湿原

神々しい程に美しく、雄大な八島ヶ原湿原の全景、自然がもたらした美とロマンの感動の地



12,000年の悠久の時を刻み、静かに成長を続ける八島ヶ原湿原、一年に1oづつ堆積をする泥炭層(冷涼な気候で植物が腐敗しないで堆積)は8mに達する。ミズゴケ類、カヤツリ草科、木本科植物252種を数える、中央部分が盛り上がった日本最南の高層湿原です。湿原研究の第一人者Jensen博士が「これほど見事なものは世界でもベルギーに一ヶ所あるだけ」と絶賛している。

ツルコケモモ キリガミネヒオウギアヤメ
モウセンゴケ
湿原植物7月
食虫植物
ねばねばの繊毛で虫を取る

この他霧ヶ峰には枯れた植物が微生物に分解されて流れてしまい、泥炭層が水面よりも発達しない低層湿原の「車山湿原」(堆積1.5m)、また、高層と低層が両方見られる貴重な「踊場湿原」(堆積2.5m)があり、この三大湿原はいずれも国の天然記念物に指定されている。

八島ヶ原湿原には二つの大きな池と小さな鬼ガ泉水という池がある 
初夏の八島池、島の数が多いことから七島八島とも言う 早春の鎌ヶ池、上から見ると形が鎌に似ている
高層湿原の成り立ち
第一段階
12000年前
霧ヶ峰一帯の火山活動が収まった後、溶岩くぼみに水がたまって池ができる。
第二段階 土砂が流れ込み、スゲやヨシなどの水生植物が自生する。
第三段階
7500年前
冷涼な気候のため植物が腐らず堆積する。水が酸性となり、ミズゴケ類しか住めない湿地となる。
第四段階
5500年前
水底に植物がたまり水面までくる。湿原内に凸凹ができる。これが湿原の成長に欠かせない秘密である。
霧が多い霧ヶ峰であるため、凹部分に霧がたまり、ミズゴケが成長する。さらに成長して凸となる。
現在
堆積8m
次の年には隣接の凹に霧がたまり、ミズゴケが成長して凸を形成する。この繰り返しを何千年も経て、湿原全体が上に押し上げられて高層湿原となった。
八島ビジターセンターあざみ館
環境庁「日本の音風景100選」に八島ヶ原湿原
のシュレーゲルアオガエルの蛙鳴が選ばれました。

八島ヶ原湿原の伝説

八島ヶ原湿原の北すみに現在も鏡のような美しい小さな池があります。むかしこの湿原の西の東俣に杜若(カキツバタ)というそれは美しい少女が住んでいました。また、池のはるか南側の尾根に山彦というこれもりりしい若者が住んでいました。
ある日二人はそれぞれ池へ散歩に出かけた時のこと、それまでたち込めていた霧が一瞬晴れわたりました。少女は若者のたくましい姿に、若者は少女の天女のような美しさに惹かれ、一目で互いに好きになってしまいました。
しかし二人ともまだ自分の本当の姿を見たことがありません。そこで、まず山彦が池に姿を映してみることにしました。と、その時突然車山の方から風が吹き、さざなみがたちました。水面にはゆがんで鬼のように恐ろしく醜い山彦の姿が映し出されました。今度は杜若が水面をのぞくと風もなく、美しい姿が浮かび、思わず自分で見とれてしまいました。がっかりした山彦は車山の陰の谷に隠れて、二度とと出てきませんでした。一方少女は美しい自分の姿に見とれている内、そのまま池のほとりの紫の花、カキツバタになってしまいました。池のほとりで谷の方をむいて「オーイ」と呼ぶと山彦が「オーイ」と返事はしますが相変わらず姿は隠したままです。小さな池は「鬼ガ泉水」と言って、今でもきれいな水をたたえています。
旧御射山遺跡
八島ヶ原湿原の南端に旧御射山遺跡がある。古代から五穀豊饒を祈願した祭りが最も盛んになったのは鎌倉幕府の時であり、全国から鎌倉の武士達が集い、流鏑馬(やぶさめ)や笠懸(かさがけ)などの武術を競い合ったことから、国体発祥の地とも言われている。西側の丘には観客席跡の土段が残っている
尾花ふく穂屋のめくりのひとむらに
 しばし里あり秋の御射山

諏訪大社下社大祝 金刺 盛久の歌
四つの穂屋を中心に祭壇を設け、祭りに参向する勅使の桟敷、参列する武将は北条氏を始め、千葉氏、佐々木氏、梶原氏、和田氏、信濃では諏訪神家、海野氏、望月氏、根津氏それに甲州侍桟敷を設けた。天然の丘に土段を設けた観覧席はあふれんばかりの見物人でいっぱいになった。
昔、諏訪のお明神様がインドのある国の王様であられた時、悪獣が良民を害して困窮した。悪者は王の城をのっとり、王の身が危うい時天帝に助けを請うと、三光一度に輝き悪賊を追い払ったと言われている。ここ御射山は地上に三光を具現した日本で唯一の聖地でありすなわち、真澄の池=「太陽」は池のくるみ、鎌ヶ池=「月」、七島八島=「星」になぞらえたと言われている。(諏訪市上桑原牧野組合伝承資料に基づきました。)

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