ヒュッテ霧ヶ峰 小史
このページは2代目の私が編集、作成しました。

昭和17年11月霧ケ峰高原強清水に建てられた木造2階建ての文字通りの小舎(ヒュッテ)です。
写真は開所式の物で全景はこれ1枚しか現存していません。
石積の玄関を入ると大きなペチカがどっしりとそなえられ、建物全体をやんわり暖めていました。
1,2階にはテラスもあり、周りの木々も今ほど大きくなく、アルプスの山々が一望できました。

当時は11月に雪が積もったのですね。
時代はまさに戦時中にあり
営業許可を取るのが難しく、
長野県に貸与する形で
「長野県営青少年宿泊所」
として営業を始めました。
今でも古い人は「県営ヒュッテ」
と呼んでいます。
1F左側よりベッド(といっても蚕棚様式2段)ルーム、玄関左に管理室、玄関右の石積の部分は乾燥室、
その右側テラスの奥が食堂、調理室。2F左側よりベッドルーム、図書室、教官室、一番広いベッドルーム
と続き、収容は50人でした。言うまでも無くランプ、まきストーブ、ペチカ、井戸水の生活でした。

当時は道路がなく、建設資材を牛車で6Kmの坂道を運びました。諏訪市(当時は上諏訪町)から霧ヶ峰までは15Kmの行程で途中の清水橋まで道路が開通していました。バスが霧ケ峰強清水まで全線開通したのは昭和26年12月のことです。それまでは食料品、生活必需品などは背負って、長い道のりを運んできました。老いた母は厳しかった当時の事を懐かしげにこう振り返ります。「一度でいいから何も持たずに登ってみたかった」. . .と。
一泊3食1人2円30銭
米、味噌、醤油、砂糖、灯油は県からの配給がありました。
その頃霧ケ峰強清水には昭和8年に建設のグライダー格納庫と宿舎、昭和13年建設の作太小屋とヒュッテ霧ヶ峰の3軒のみでした。戦後県からの払い下げを受け現在に至っています。
お客様はもっぱら夏季はグライダー、冬季は戦技スキー訓練に限られ、ハイカーなどはまだありませんでした。

それより以前に「ヒュッテ霧ヶ峰」があった?
ヒュッテ霧ヶ峰とほとんど同じ場所に、岡山出身の長尾宏也さんが経営していたヒュッテ・霧ヶ峰がありました。昭和6年建設で昭和11年に焼失してしまいました。面識が無く、残念ながら現存する写真はありませんが、(その写真が最近手に入りました。2002年8月平凡社発行「別冊太陽」の”山旅の宿”「再現1935年ヒュッテ霧ヶ峰 山の會」の記事中に3枚ありましたので掲載します)。以下手塚宗求氏(車山肩コロボックルヒュッテ経営)紹介の『雲と草原』 尾崎喜八=著の一文を引用させていただきました。私は同じ場所でしかも同名で営業していることが恥かしく思う反面、誇りを感じています。
収容50名を超えるかなり大規模な建物 廻りの地形は現在も変わりません 堂々とした玄関、今も石が残っています
ヒュッテ・霧ヶ峰は、現在の強清水バス停の北北西、約二百メートルの場所にあった。現存する同名のヒュッテとは全く関係はない。
 岡山出身の長尾宏也さんが経営したヒュッテ・霧ヶ峰は、暖炉を備えた欧風の、当時としては非常にモダンで、しかも快適な生活ができる滞在型の建物だった。そして長尾さんは、霧ヶ峰の黎明期を代表する人にふさわしく、教養、学識を備え持った人であった。ヒュッテを拠点にして書いた著作も多く、十数冊に及んでいる。
 ヒュッテには、さまざまな分野の高度な知性の人たちが集まった。いわゆる山の勉強会がしばしば開催された。私の知る範囲では、講師は木暮理太郎(日本山岳会会長)、武田久吉(日本山岳会設立者の一人)、辻村太郎(東京帝國大学教授)、藤原咲平(中央気象台長、お天気博士、諏訪市出身)、柳田国男(日本民族学の創始者)の諸家。講習生は尾崎喜八(白樺派詩人)、深田久弥(日本100名山)、小林秀雄(文芸評論家)、中西悟堂(鳥類研究にも著名な詩人)、松方三郎(アルプスで活躍の登山家)、村井(黒田)初子(女流登山家のパイオニア、NHK料理番組担当)、石黒忠篤(後の農林大臣)他多くの人たちだった。実に錚錚たるメンバーである。
 そのヒュッテが焼失したのはクリスマスの前夜だった。(著=手塚宗求氏)(以下尾崎喜八著『雲と草原』より)
ゆかりある日の、朝のひとときのこの平和よ。いま蓄音器から鳴り止んだバッハのオラトリオの詠唱が、まだ耳の底にその余韻をのこしている。私は静かに珈琲の碗をとりあげる。だが心は重い。霧ヶ峰のヒュッテが焼けたのだ。――
ゆうべ、クリスマスの前夜、その悲報に初めて接した瞬間には、ただ唖然とするより外はなかった。百度の「何故?」に対しても百度ながら答えは無く、ただ「何ということをしたんだろう!」が空しく幾度も繰り返された。それが今朝の目覚めには、或る宥めようもない遺憾、何ものへというあてもなく、それでいて無限に深い怨みに似た感情と変り、そして今では、もう跡方もなくなったであろう思い出の建物に対する愛情と、其処を生活の根拠、楽しい山の家庭として暮らして来た友人とその家族、わけてもあの小さい子供たちと、彼らの若い母親との絶望的な落胆に対する限りない同情が、静かに後から後からと流れ出して、悲しく私を浸している。―
ああ、灰のクリスマス! 抑もどんなドゥビュッシーが彼らのために、また別の「もう家の無い子供等のクリスマス」を書くのだろう?

車山中腹より八島ケ原湿原を望む。右側に鎌ケ池、正面の山は鷲ケ峰。人物中央は母、左は兄。昭和25年頃
八島池(七島八島)後方の山々は木は無く大草原でありました。現在は森林化が進んで深刻な問題と
なっています。写真中央は父三吉。
現在の八島ケ原湿原はこちら
昭和17年当時はスキー場の中心は現在の「踊場湿原」のある「池のくるみ」でした
点々とあるのは木ではなく人です。
霧ヶ峰スキー場(池のくるみ)が開設した昭和8年の風景です。この年上諏訪駅降車スキー客は9,457人。

「池のくるみ」スキー場、カッボチョ山の稜線がきれいです。今は森林化が深刻です。あの時代にミニスカートでスキーとは、、、。 やがて強清水にもスキーヤーが訪れるようになり、昭和29年に木柱の
リフトができ、一段と賑わいをみせるようになりました。
現在の霧ヶ峰スキー場はこちら

先代(父三吉、M43年〜H12年)は、こんな人だった!私もびっくりしました。
子供の頃からビリヤードをやったり スキーはもちろん、
「池のくるみ」にて。正面は蓼科山
旧制中学(諏訪中)時代アイスホッケーは
かなりなもので慶應からも誘われた(本人談)
履いているのは当時珍しかった
フィギュアスケート

鴨打。やっぱり諏訪湖? 諏訪湖での水泳、後列右から4番目
諏訪湖は夏も冬も活動(遊びも)の場だった
ゴルフは戦前派、バックの建物は川奈?

乗り物編、まず馬 バイクも(バックは千人風呂の片倉館) モービルも、、、
あったんですねあんな時代に
グライダーも!
免許は無いはず、映画ロケ?

槍ヶ岳登山 上諏訪駅での風景。実家も上諏訪で旅館をしていました。
右端和服が父です。お客様のお見送り?唯一仕事?の図です。

昭和30年中頃のスケッチ、一夏手伝いにきて下さったK.堀内さんの作品。ヒュッテ前の強清水湿原のコナシの木も小さかった頃です。

ここまで見ていただき、ありがとうございました。最後にとっておきのニ枚です。

諏訪湖畔でたたずむ母、、娘時代 如何にも聡明そうな兄と、そうでない私 昭和25年

ヒュッテ霧ヶ峰小史」のつもりがテーマから外れてしまいました、ついでに番外編の一枚。これで本当に最後です。

映画のロケの記念写真だと思います。父は後列右端ですが、前列中央の少女が気になって拡大してみました。

はるか昔見た事があるような、無いような、、、永遠の、、、と呼ばれていた世紀の大女優さん?と思うのですが。周りの方々も普通と違うように思えてならないのですが、、、。
私の思っている事が本当だとしたら、相当な秘蔵写真なのですが、もしこの写真にお心当たりが
ある方はご連絡を頂きたく存じます。
投稿をいただきまして「高峰秀子さん」とわかりました。「佐野周二さん
」も写っています。

この様な写真を画質を落とさず取り込んでしまいましたので、大容量のページになってしまいました。ますますテーマから外れてしまって我ながら反省しきりです。。平成12年の暮に他界を致しました父を偲んで作成致しました。改めて、多趣味でクラシック音楽とタバコの好きな父が、すばらしい時代と人に恵まれ、縁あって母と結婚し、”0”からの出発として何もない”0”の霧ヶ峰の地にヒュッテ霧ヶ峰を開設したことに心から感謝をしている2代目です。幾度かの改装を重ねていますが、建設当時の食堂の柱を1本残してあり、それが父の思い出となってしまいました。